人には目があるから、
何でも見たもので正確に認識できると考える人が多い。
でも、実際には、
物事をありのままに観ることができず、
判断ミスをおかしてしまうことがある。
例えば、
ここにひとりのヤクザの親分がいます。
このヤクザの親分に対するまわりの認識は異なります。
刑事の場合。
こいつは悪だと。
地域で問題を起こす否定すべき悪人に見えるでしょう。
しかし、子分には、刑事こそが悪で、対象は面倒見のよい親分に映ってみえます。
(場合によっては、命を賭けたい恩人にも見えるかも)
妻の場合。
短気で世間的には悪ではあるが、
豊かな生活を与えてくれるよい人に映るでしょう。
幼い娘には、欲しいものを買ってくれる優しい父親に映ってみえる。
また、友好関係のヤクザには、義理に厚いよい親分に映って見え、
敵対するヤクザには、うっとおしい嫌な男に映っている。
さらに、近所の人。
差別観念が少ない人は、それほど気にならず、
嫌悪が強烈な人は、ヤクザというだけで生ゴミを見るように嫌うでしょう。
このように、
ひとつの対象に対して、それを認識する観念やエゴによって、
全く違う映し方をしています。
刑事は、法的観念によってのみ、見つめるので悪と認識し、
幼い娘は、自己に優しいという観点から良き父と見て、
友好団体のヤクザは、自己の利害関係によって敵味方と振り分ける。
つまり、
自分にとって対象がどうであるか「エゴの介入」で真実が見えなくなる。
純粋観照とは。
それは、エゴや観念を超え、真理で物事を正確に見つめることを意味します。
ソースや醤油をつけすぎたり、
味の濃いものを食べると、
素材本来の味がわからなくなるように、
自分のエゴ、固定観念、先入観、過去の経験が
対象をありのままに見ることへの邪魔にならないように、
自分自身を出来るだけ清めておこう。
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