以下、サイトからの抜粋です。
VOGUE JAPANサイト
右側の看護婦のような装いの女性は妻のクララ。
ちょうど100年。
1兆円に届きそうなほどの一大産業に成長したこのワークアウトの知られざる
誕生秘話から開発者ジョセフ・ピラティスの思想を、
ニューヨークを拠点に活動するジャーナリスト、ダニエル・フリードマンが紐解く。
30回で体のすべてが変わる!?
ところが数週間前、ピラティスの大手フランチャイズが、
私が住むマンハッタンのアッパーイーストサイドに広々とした新スタジオをオープンさせた。
磨き上げられたガラスのドアから中をのぞき込むと、すべてが新しく清潔で、
柑橘系の香りがしていた。
しかしそれ以上に私の注意を引いたのは、窓に掲げられたキャッチフレーズだった。
「10回で違いを感じ、20回で見た目が変わり、30回で体のすべてが変わる!」
しかし、地下鉄の階段を登っただけで息切れしたり、
お気に入りのジーンズがキツくなったと感じていた私は、
むくむく膨れ上がる興味を抑えられなくなり、
つい無料の入門クラスに申し込んでしまった。
一連の全身ストレッチとレジスタンス運動を終えたあと、
私は全身に活力がみなぎるのを感じたのだ。
そして明るい気持ちでスタジオを去ろうとしていたとき、
窓に掲げられたあのキャッチフレーズがただの誇大広告ではなく、
このワークアウトを生み出したドイツ人のジョセフ・ピラティスの言葉
であることを知ったのだった。
サーカス芸人でありボクサーだったピラティスが、健康を手に入れるための
身体調整法であるこの独自のメソッドを提唱したのは、実に100年以上も前のことだ。
揺るぎない信念と革命的アイデア。
フィットネス界では伝説となっている。
ピラティスが「コントロロジー」と呼んでいたこの一連のリハビリ運動は、
身体と心の総合的なバランスを生み出すことを目的としていた。
医師の推奨するルーティーンとしてワークアウトが一般に広まったのは
その数十年後のことで、当時、このリハビリ運動はまったく新しいものだった。
独自メソッドに強い信念を持っていたピラティスは、
1934年の宣伝パンフレットに、こう記している。
新しいアイデアを支える理論が実際の応用で証明されれば、
さらに進化、発展するのは時間の問題なのです」
それほどメジャーなワークアウトであるがゆえに、もはやジムに通っている
人にとってはややありふれた感があるかもしれない。
しかし実のところ、ピラティスの教えがほぼすべてのワークアウトに
息づいていることを知る人は、そう多くないだろう。
マンハッタンにあるニュースクール大学で、フィットネスの歴史を研究する
ナタリア・メールマン・ペトジェラ博士はこう語る。
体幹と呼吸に焦点を当てたワークアウトはすべて、ピラティスの影響を受けているのです」
ピラティス実践者だった。1972年撮影。
幼少期、病弱だったピラティスは、病を克服するために強くなろうとしたらしい。
彼は体操選手になるためのトレーニングを行い、それがサーカス芸人のキャリアに
つながった。
19世紀終わりから20世紀の初頭にかけては、筋肉質な男性と女性は憧れの対象ではなく、
変わり者と捉えられた。
ピラティスも例外ではなく、あくまで「サーカス芸」とみなされた。
イングランドを巡業していたが、敵国人として逮捕されてしまう。
そして、収監されたイギリスのマン島収容所で、後に彼の名が付けられた
独自のワークアウトメソッドが確立されたのだった。
きっかけは収容所と猫。
暇つぶしに島の痩せこけた猫たちがネズミや鳥を追いかけているのを眺めていた
ピラティスは、そのエネルギーと敏捷性に驚嘆した。
それは、マン島に収容されている人々の身体的、精神的状態とは
大きくかけ離れたものだった。
ピラティスは猫の動きを研究し、頻繁なストレッチが猫たちに活力を与えていると
結論付けた。そしてピラティスは、人間の筋肉を伸ばすための一連の運動を考案しはじめ、
収容所にあった病院のベッドを利用して、荒削りながらもワークアウト器具を作り上げた。
まさに、囚われの聴衆を相手に指導していたのだ。
このワークアウトによって、1918年にスペインかぜがマン島に及んだときも
囚人たちは誰も病気になることなく、戦争が終わったときには戦前よりも
健康になっていたと語り継がれている。
自由を手に入れたピラティスは、さっそくこの独自のフィットネス教義を広める活動を開始。
1926年にはドイツを去り、アメリカ・ニューヨークを目指す船上で、のちの妻となる
クララに出会った。
そして2人は、数十億ドル規模の産業を立ち上げる基礎を築くことになる。
ピラティスの長年のクライアントだった。
そのすぐ隣では、ニューヨークシティ・バレエ団がリハーサルを行っていた。
そのアパート兼ジムのスペースに、ピラティスは現在のリフォーマーやキャデラックの
初期モデルを次々と設置しはじめた。
ピラティスはすぐに、名ダンサーのジョージ・バランシンとマーサ・グラハムと
仕事をするようになり、2人は、バレエ団員が怪我をするたびに、
リハビリのためにピラティスのもとへ送り込んだ。
そして最終的には、怪我の予防のための指導を頼むようになった。
ピラティスの評判は次第にハリウッドにも及び、キャサリン・ヘプバーンや
ローレンス・オリヴィエなどのスターたちも顧客に加わった。
指導を行ったため、一般の人々も徐々に関心を持つようになった。
ピラティス本人から指導を受けた存命の弟子は現在2人いる。
そのうちの1人で、84歳の今もピラティスを指導しているロリータ・サン・ミゲルによると、
ピラティスはよく、ぴったりとした水泳パンツと手作りのエスパドリーユという出で立ちで
ジムを歩き回き、たくましい体を見せびらかしていたという。
性格の激しいピラティスは、たとえ顧客であっても不満を感じると「出て行け!」と
容赦なく言い放ったらしい。
彼は片目が義眼だったが、それはボクシング事故が原因だったという人もいる。
義眼とふさふさの白髪のピラティスは、まるで漫画のキャラクターのようだったが、
毎日1リットル以上のアルコールを飲み、15本の葉巻を吸う豪快な男でもあった。
他方、看護師の白衣を身につけた妻のクララはいつも穏やかで、
サン・ミゲル曰く「2人はコインの裏表」のようだった。
スピードアップではなく、スローダウン。
デスクでの座り方、動き方、野球などのスポーツに対する愛情でさえ、
身体のバランスを崩していると指摘した。
彼は1962年、アメリカのスポーツ週刊誌
『スポーツ・イラストレイテッド(Sports Illustrated)』にこう語っている。
路上の人々を見てください。腰を曲げて咳き込んでいます。
そしてあの血色の悪い顔! なぜ彼らの姿は動物と違うのでしょう?
猫やその他の動物を見てください。おなかが出ている動物は、豚くらいなものです!」
アメリカ人を健康にできると信じていたのだ。
ヘルニアになったりすることはないのです」
しかし彼ら弟子たちは、独立して自分のスタジオをオープンし、多くの後進を育てた。
ピラティスのワークアウトはアメリカ全土の数か所のジムで静かに続けられ、
支持者の多くは、柔軟で強靭な肉体を保つ必要のあったダンサーたちだった。
アメリカ人が心臓と身体を激しく動かすエアロビクスと重量挙げに飽きた
1990年代のことだ。
フィジカルマインド・インスティチュートの創設者で、
50年以上ピラティスを実践してきたジョアン・ブレイバートは言う。
重量化ではなく、軽量化。スピードアップではなく、スローダウンを目指したのです」
ピラティスを支持したことで、ピラティス需要は一気に急増した。
「私たちはスタジオを次々に開き、本を何冊も執筆し、あまたのクラスを開講しました」
と、ニューヨークを拠点とするリアル・ピラティス(Real Pilates)のオーナーで
ピラティスブームの推進に貢献したアリシア・ウンガロは振り返る。
1996年にテレビショッピングで家庭用ピラティス器具の販売が開始されると、
ピラティスの弟子たちは、このワークアウトがひとり歩きし始めたことを確信した。
そして現在、ピラティスは実に90億ドル(約9900億円)規模の産業にまで成長した。
という彼の信念が本物であったかどうかを聞いてみた。
このフレーズをピラティス自身が語ったとする文献は存在しないという。
それでも、彼の弟子たちは呪文のようにこのフレーズを繰り返す。
おそらく、ピラティス誕生秘話やワークアウトそのものと同じように、
この宣伝文句も現在のニーズに合わせて変わっていったのだろう。
とても興味深い内容でした。
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STUDIO HIGUCHI(スタジオヒグチ)は札幌市北区の麻生にあるピラティス・ヨガ・フィットネススタジオです。元エアロビック競技 日本代表が営んでおり、本格的なピラティスのレッスンが受けられる他、子供向けの運動教室やピラティスインストラクターの資格を取りたい方向けの養成コースも実施中。札幌市では希少なピラティスリフォーマーを使用したマシンピラティスのパーソナルレッスンも行っており、身体の引き締めや姿勢改善に効果が期待できます。まずは体験レッスンからご参加ください。
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